「菅井きん」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(reflist 取る。)
(七人の侍)
14行目: 14行目:
  
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
*東京芸術劇場の研究生に補欠合格したとき、「本格的に女優になりたい」と父に相談したところ、「女優とは美人がなるものだ。鏡とよく相談しろ」と反対された。
+
*東京芸術劇場の研究生に補欠合格したとき、「本格的に女優になりたい」と父に相談したところ、「女優とは美人がなるものだ。鏡とよく相談しろ」と反対された<ref name=sugai1></ref>。
 
*芸名の「菅井きん」は初舞台のとき恩師の[[久保栄]]が当時の本名の須斎キミ子をもじってつけた。最初はショックだったという。
 
*芸名の「菅井きん」は初舞台のとき恩師の[[久保栄]]が当時の本名の須斎キミ子をもじってつけた。最初はショックだったという。
 
*映画『砂の器』『八甲田山』などに携わった元俳優座映画放送プロデューサーの[[佐藤正之]]が夫で、流産を2回経験後に佐藤との間に一女を儲けた。なお必殺シリーズでの婿いびりをおこなう姑の役が代表作のひとつとなっているが、娘が結婚を控えていたため役どころと実像が混同されるのを嫌い、降板を申し出たことがあった<ref>日刊スポーツ,2018年8月24日,https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201808240000105.html</ref>。
 
*映画『砂の器』『八甲田山』などに携わった元俳優座映画放送プロデューサーの[[佐藤正之]]が夫で、流産を2回経験後に佐藤との間に一女を儲けた。なお必殺シリーズでの婿いびりをおこなう姑の役が代表作のひとつとなっているが、娘が結婚を控えていたため役どころと実像が混同されるのを嫌い、降板を申し出たことがあった<ref>日刊スポーツ,2018年8月24日,https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201808240000105.html</ref>。
21行目: 21行目:
 
*東京芸術劇場での久保栄の「演劇概論」の講義を理解できず、菅井は「先生、私さっぱりわからないんです」というと、「きみ学歴はどのくらいあるの?」と聞かれたという。
 
*東京芸術劇場での久保栄の「演劇概論」の講義を理解できず、菅井は「先生、私さっぱりわからないんです」というと、「きみ学歴はどのくらいあるの?」と聞かれたという。
 
*脇役が多いため、自分で自分のことを「ワンシーン役者」と自称していた。
 
*脇役が多いため、自分で自分のことを「ワンシーン役者」と自称していた。
*映画『生きる』での役柄は、長屋の陳情団のおばさん連中の一人であった。雨降りシーンのとき、最初は赤ん坊を背中に背負ったまま公園でずぶ濡れになる予定だったが、黒澤監督が本番前に「赤ん坊が可哀相だから、赤ん坊は背負わなくていいよ」といい、菅井だけがずぶ濡れになった。
+
*映画『生きる』での役柄は、長屋の陳情団のおばさん連中の一人であった。雨降りシーンのとき、最初は赤ん坊を背中に背負ったまま公園でずぶ濡れになる予定だったが、[[黒澤明]]監督が本番前に「赤ん坊が可哀相だから、赤ん坊は背負わなくていいよ」といい、菅井だけがずぶ濡れになった。
 
*『生きる』に出演したとき黒澤監督に「今度僕がやる映画であなたの役を書いといたからね」と言われ、周りの役者仲間から「あなた、いいわねえ、いいわねえ」と羨ましがられた。
 
*『生きる』に出演したとき黒澤監督に「今度僕がやる映画であなたの役を書いといたからね」と言われ、周りの役者仲間から「あなた、いいわねえ、いいわねえ」と羨ましがられた。
*『幕末太陽傳』では当時助監督の[[今村昌平]]から、「少し先に入浴シーンを撮るんですが、ご都合いかがでしょうか?」と言われる。「ええーッ」と驚くと、「裸じゃなくてかまわないから、水着着てお風呂に入ってください」といわれて水着を着て、頭に鬘をつけ、風呂に入った<ref>*「文藝春秋」2003年8月号
+
*[[黒澤明]]監督の代表作『七人の侍』に出演することになっていたが、骨のう腫という病気のため手術することになり、出演できなくなった<ref name=sugai1></ref>(p.211)。菅井は「本当に残念でしたねえ。悔しくて悔しくて」と語っている。どんな役だったか気になり、映画を見たところ、川でバタッと倒れて、背中に槍が刺さっている役だった<ref name=sugai2>「文藝春秋」2003年8月号</ref>。
</ref>。
+
*『幕末太陽傳』では当時助監督の[[今村昌平]]から、「少し先に入浴シーンを撮るんですが、ご都合いかがでしょうか?」と言われる。「ええーッ」と驚くと、「裸じゃなくてかまわないから、水着着てお風呂に入ってください」といわれて水着を着て、頭に鬘をつけ、風呂に入った<ref name=sugai2></ref>。
 
*沢村貞子から「あなた、整形しちゃだめよ」「われわれにとっては、シワ一本ギャラのもとなんだから」と言われ、「シワ一本ギャラのもと」とおまじないのように唱えている<ref name=sugai1></ref>。
 
*沢村貞子から「あなた、整形しちゃだめよ」「われわれにとっては、シワ一本ギャラのもとなんだから」と言われ、「シワ一本ギャラのもと」とおまじないのように唱えている<ref name=sugai1></ref>。
 
*『お葬式』では台本を読んだとたん、「ぜひやらせてください」と勢い込んで返事した。役どころは、ごく普通の奥さんで、常日頃から私が一度はやってみたいなあと思っていた理想の役であった。来るものは拒まず、どんな役でもできるだけ引き受けるのをモットーにしていたが、さりげない、空気のような役をやってみたいと考えていた<ref>報知新聞,2018年8月24日,https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180823-OHT1T50274.html</ref>。
 
*『お葬式』では台本を読んだとたん、「ぜひやらせてください」と勢い込んで返事した。役どころは、ごく普通の奥さんで、常日頃から私が一度はやってみたいなあと思っていた理想の役であった。来るものは拒まず、どんな役でもできるだけ引き受けるのをモットーにしていたが、さりげない、空気のような役をやってみたいと考えていた<ref>報知新聞,2018年8月24日,https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180823-OHT1T50274.html</ref>。

2018年8月28日 (火) 15:57時点における版

菅井 きん(すがい きん、本名:佐藤 キミ子、旧姓:須斎キミ子、1926年2月28日 - 2018年8月10日)は、日本の女優である。

経歴

1926年(大正15年)2月東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)早稲田町の染め物問屋に生まれる。その後、麻布に移る。幼稚園から市立本村小学校(現港区立本村小学校)、頌栄高等女学校(現私立頌栄女子学院中学校・高等学校)卒業。 卒業後、徴用逃れのため、女学校の先生の紹介で文部省総務課・東京帝国大学学生課で事務職員として勤める。 1946年、東京芸術劇場研究所の研究生に応募し、補欠で合格した。同期生は約20名で、多々羅純斎藤美和西村晃などがいた[1]。東京芸術劇場は、久保栄が滝沢修(旧新協劇団)、薄田研二(旧新築地劇団)とともに結成し、山本安秀清水将夫加藤嘉森雅之赤木蘭子などが参加していた。翌1947年3月『林檎園日記』の帝国劇場で初舞台を踏む。 同年、東京芸術劇場が解散となり劇団俳優座に研究生補で入団する。その後、研究生、準劇団員、劇団員と昇格した。劇団俳優座に移籍した後、「黄色い部屋」の福子役で演技に開眼する。1951年製作の『風にそよぐ葦』で映画デビューした。 菅井の知名度が一気に広がったのは、1973年、『必殺仕置人』の中村主水を「ムコ殿!」といびる姑・中村せん役で出演したことである。 『生きる』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『どですかでん』『砂の器』などの名作映画に出演する。 1996年以降は娘夫婦と一緒に暮らしていた。 2010年に自宅で転倒し、大腿骨を骨折して以後、車椅子生活となるも、その後も、女優復帰を目指しリハビリに励んでいた。 2014年10月2日にフジテレビの情報番組『ノンストップ!』に出演したのが最後のメディア出演であった。 亡くなる前日の9日も会話はしっかりして体調も良かったが、2018年8月10日に容態が急変し、同日午後2時、心不全のため、家族に看取られ死去した。持病はなく老衰とみられる。

人物

  • 東京芸術劇場の研究生に補欠合格したとき、「本格的に女優になりたい」と父に相談したところ、「女優とは美人がなるものだ。鏡とよく相談しろ」と反対された[1]
  • 芸名の「菅井きん」は初舞台のとき恩師の久保栄が当時の本名の須斎キミ子をもじってつけた。最初はショックだったという。
  • 映画『砂の器』『八甲田山』などに携わった元俳優座映画放送プロデューサーの佐藤正之が夫で、流産を2回経験後に佐藤との間に一女を儲けた。なお必殺シリーズでの婿いびりをおこなう姑の役が代表作のひとつとなっているが、娘が結婚を控えていたため役どころと実像が混同されるのを嫌い、降板を申し出たことがあった[2]
  • 当時のプロデューサー{誰?}は菅井について「演技以外では極めて礼儀正しい人物だった」と評している{いつ?}。
  • 82歳で初主演した2008年映画『ぼくのおばあちゃん』で、「世界最高齢映画主演女優」として2008年8月にギネス認定される[3][4][5]
  • 東京芸術劇場での久保栄の「演劇概論」の講義を理解できず、菅井は「先生、私さっぱりわからないんです」というと、「きみ学歴はどのくらいあるの?」と聞かれたという。
  • 脇役が多いため、自分で自分のことを「ワンシーン役者」と自称していた。
  • 映画『生きる』での役柄は、長屋の陳情団のおばさん連中の一人であった。雨降りシーンのとき、最初は赤ん坊を背中に背負ったまま公園でずぶ濡れになる予定だったが、黒澤明監督が本番前に「赤ん坊が可哀相だから、赤ん坊は背負わなくていいよ」といい、菅井だけがずぶ濡れになった。
  • 『生きる』に出演したとき黒澤監督に「今度僕がやる映画であなたの役を書いといたからね」と言われ、周りの役者仲間から「あなた、いいわねえ、いいわねえ」と羨ましがられた。
  • 黒澤明監督の代表作『七人の侍』に出演することになっていたが、骨のう腫という病気のため手術することになり、出演できなくなった[1](p.211)。菅井は「本当に残念でしたねえ。悔しくて悔しくて」と語っている。どんな役だったか気になり、映画を見たところ、川でバタッと倒れて、背中に槍が刺さっている役だった[6]
  • 『幕末太陽傳』では当時助監督の今村昌平から、「少し先に入浴シーンを撮るんですが、ご都合いかがでしょうか?」と言われる。「ええーッ」と驚くと、「裸じゃなくてかまわないから、水着着てお風呂に入ってください」といわれて水着を着て、頭に鬘をつけ、風呂に入った[6]
  • 沢村貞子から「あなた、整形しちゃだめよ」「われわれにとっては、シワ一本ギャラのもとなんだから」と言われ、「シワ一本ギャラのもと」とおまじないのように唱えている[1]
  • 『お葬式』では台本を読んだとたん、「ぜひやらせてください」と勢い込んで返事した。役どころは、ごく普通の奥さんで、常日頃から私が一度はやってみたいなあと思っていた理想の役であった。来るものは拒まず、どんな役でもできるだけ引き受けるのをモットーにしていたが、さりげない、空気のような役をやってみたいと考えていた[7]

受賞

  • 第9回報知映画賞最優秀助演女優賞『お葬式』(1984年(昭和59年))
  • 第8回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞(お葬式/必殺! THE HISSATSU)(1985年(昭和60年))
  • 紫綬褒章(1990年)
  • 勲四等宝冠章(1996年)

映画出演

  • 『風にそよぐ葦』
  • 『生きる』(1952年)
  • 勲章(1954年)
  • ゴジラ(1954年)
  • 愛のお荷物(1955年)
  • 女囚と共に(1956年) - 刑務官
  • 幕末太陽傳(1957年)
  • 張込み(1958年)
  • 人間の壁 (1959年)
  • 秋立ちぬ(1960年)
  • 路傍の石(1960年)
  • 女が階段を上る時 (1960年)
  • 悪い奴ほどよく眠る(1960年)
  • 黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960年)
  • 人間の条件 完結篇(1961年)
  • 豚と軍艦(1961年)
  • 大学の若大将(1961年)
  • はだかっ子(1961年)
  • 女ばかりの夜(1961年)
  • キューポラのある街(1962年)
  • 放浪記(1962年)
  • 天国と地獄(1963年)
  • 雨の中に消えて(1963年)
  • 白と黒 (1963年の映画)(1963年)
  • 秘剣(1963年)
  • 女の歴史(1963年)
  • われ一粒の麦なれど(1964年)
  • 風と樹と空と(1964年)
  • 怪談(1965年)
  • 赤ひげ(1965年)
  • けものみち(1965年)
  • 恐山の女(1965年)
  • エロ事師たちより 人類学入門(1966年)
  • 四つの終止符(1965年)
  • 不信のとき(1968年)
  • みな殺しの霊歌(1968年)
  • 肉弾(1968年)
  • 野獣都市(1970年)
  • どですかでん(1970年)
  • 無常(1970年)
  • バツグン女子高校生 そっとしといて16才(1970年)
  • 曼陀羅(1971年)
  • 幻の殺意(1971年)
  • まむしの兄弟 お礼参り(1971年)
  • 人生劇場 青春・愛欲・残侠篇(1972年)
  • 忍ぶ川(1972年)
  • 黒の奔流(1972年)
  • まむしの兄弟 恐喝三億円(1973年)
  • ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!(1974年)
  • 砂の器(1974年)
  • サンダカン八番娼館 望郷(1974年)
  • 新仁義なき戦い(1974年)
  • 絶唱(1975年)
  • 神戸国際ギャング(1975年)
  • やくざの墓場 くちなしの花(1976年)
  • トラック野郎・度胸一番星(1977年)
  • 江戸川乱歩の陰獣(1977年)
  • 八甲田山(1977年)
  • 復讐するは我にあり(1979年)
  • 月山(1979年)
  • 日本の熱い日々 謀殺・下山事件(1981年)
  • 炎のごとく(1981年)
  • 遠野物語(1982年)
  • 幻の湖(1982年)
  • 序の舞(1984年)
  • お葬式(1984年)
  • 必殺! THE HISSATSU(1984年)
  • 必殺! ブラウン館の怪物たち(1985年)
  • 必殺! III 裏か表か(1986年)
  • 植村直己物語(1986年)
  • 必殺4 恨みはらします(1987年)
  • 火まつり(1987年)
  • ハチ公物語(1987年)
  • あげまん(1990年)
  • 仔鹿物語(1991年)
  • 超少女REIKO(1991年)
  • 四万十川(1991年)
  • 仔鹿物語(1991年)
  • 必殺!5 黄金の血(1991年)
  • さくら(1994年)
  • 深い河(1995年)
  • 必殺! 主水死す(1996年)
  • 機関車先生(1997年)
  • あの、夏の日(1999年)
  • 川の流れのように (映画)(2000年)
  • 化粧師 KEWAISHI(2002年)
  • 理由(2004年)
  • 黄色い涙(2007年)
  • ぼくのおばあちゃん(2008年)
  • 瞬 またたき(2010年)
  • 春との旅(2010年)

参考文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 菅井きん(1990)『わき役ふけ役いびり役―女優一筋四十五年』主婦と生活社
  2. 日刊スポーツ,2018年8月24日,https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201808240000105.html
  3. デイリースポーツ,2018年8月23日,https://www.daily.co.jp/gossip/2018/08/23/0011569591.shtml
  4. スポニチ,2018年8月23日,https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/10/23/kiji/K20081023Z00000440.html
  5. Japan Times,2018年8月24日,https://www.japantimes.co.jp/culture/2018/08/24/entertainment-news/kin-sugai-worlds-oldest-leading-actress-dies-age-92/#.W4TuZuj7Tcs
  6. 6.0 6.1 「文藝春秋」2003年8月号
  7. 報知新聞,2018年8月24日,https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180823-OHT1T50274.html