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[[蘇我馬子]]は甥の[[崇峻天皇]]が即位したとき、[[588年]]、正式の仏教寺院の建立に着手した。
 
[[蘇我馬子]]は甥の[[崇峻天皇]]が即位したとき、[[588年]]、正式の仏教寺院の建立に着手した。
これが法興寺である。地名によって飛鳥寺ともいわれる。百済王は倭国に僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣した。法興寺はわが国仏教の源流であった。法興寺は、日本ではじめて本格伽藍を持った仏教寺院といわれる。発掘から[[一塔三金堂]]の配置であったことが判明している。
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これが[[法興寺]]である。地名によって飛鳥寺ともいわれる。百済王は倭国に僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣した。法興寺はわが国仏教の源流であった。法興寺は、日本ではじめて本格伽藍を持った仏教寺院といわれる。発掘から[[一塔三金堂]]の配置であったことが判明している。
  
 
===開山===
 
===開山===
[[710年]](和銅3年)、元明天皇のときに奈良に遷都されると、飛鳥寺は718年養老2年)に新京に移され、寺名は法興寺から元興寺に変更された。奈良時代は[[東大寺]]、[[興福寺]]と並ぶ大寺院であった。
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[[710年]](和銅3年)、元明天皇のときに奈良に遷都されると、飛鳥寺は718年養老2年)に新京に移され、寺名は[[法興寺]]から元興寺に変更された。奈良時代は[[東大寺]]、[[興福寺]]と並ぶ大寺院であった。
当時の伽藍は、東大塔跡(史跡指定)・西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)が残る。五重小塔(国宝)は当時の西小塔堂の本尊、西塔とも言われ奈良時代最盛期の唯一の[[五重塔]]と言われる。
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当時の伽藍は、東大塔跡(史跡指定)・[[西小塔院跡]](史跡指定)・[[極楽堂]](国宝)・禅室(国宝)が残る。五重小塔(国宝)は当時の西小塔堂の本尊、西塔とも言われ奈良時代最盛期の唯一の[[五重塔]]と言われる<ref>元興寺編(2020)「日本仏教はじまりの寺 元興寺-一三〇〇年の歴史を語る-」吉川弘文館</ref>。
 
平安時代には官大寺は廃止され、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれた。平安時代後期には衰退していった。
 
平安時代には官大寺は廃止され、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれた。平安時代後期には衰退していった。
  
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(大意)古京となった昔の飛鳥もよいが、奈良の飛鳥もみればみるほどよいものだ。元興寺が飛鳥から奈良に移転したことを踏まえ、「平城の明日香」とよんでいる。
 
(大意)古京となった昔の飛鳥もよいが、奈良の飛鳥もみればみるほどよいものだ。元興寺が飛鳥から奈良に移転したことを踏まえ、「平城の明日香」とよんでいる。
  
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==関連項目==
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*[[南都七大寺]]
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*[[法興寺]]
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*[[東大寺]]
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*[[興福寺]]
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*[[大安寺]]
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*[[西大寺]]
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*[[薬師寺]]
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*[[法隆寺]]
  
 
==注・参考文献==
 
==注・参考文献==

2021年11月13日 (土) 10:31時点における最新版

元興寺(がんごうじ, Gangō-ji)は南都七大寺のひとつで、真言律宗である。

概要[編集]

前身の開山[編集]

蘇我馬子は甥の崇峻天皇が即位したとき、588年、正式の仏教寺院の建立に着手した。 これが法興寺である。地名によって飛鳥寺ともいわれる。百済王は倭国に僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣した。法興寺はわが国仏教の源流であった。法興寺は、日本ではじめて本格伽藍を持った仏教寺院といわれる。発掘から一塔三金堂の配置であったことが判明している。

開山[編集]

710年(和銅3年)、元明天皇のときに奈良に遷都されると、飛鳥寺は718年養老2年)に新京に移され、寺名は法興寺から元興寺に変更された。奈良時代は東大寺興福寺と並ぶ大寺院であった。 当時の伽藍は、東大塔跡(史跡指定)・西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)が残る。五重小塔(国宝)は当時の西小塔堂の本尊、西塔とも言われ奈良時代最盛期の唯一の五重塔と言われる[1]。 平安時代には官大寺は廃止され、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれた。平安時代後期には衰退していった。

江戸時代[編集]

江戸時代には、西大寺直門として多くの重役を輩出した。

明治時代[編集]

明治時代の神仏分離廃仏毀釈により、住職が不在で荒れ果てた状態になった。

昭和時代[編集]

昭和の時代の元興寺に、1943年(昭和18年)、宝山寺から特任住職として一人の僧侶辻村泰圓が入寺した。辻村は元興寺復興の道を切り拓いた。戦後に泰圓は東奔西走し、多くの人々に会い、募金活動を進めた。1970年(昭和45年)に整備がほぼ完了した。

万葉集[編集]

万葉集に元興寺の層が詠んだ歌が収録されている。

白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし
「十年戌寅元興寺之僧自嘆歌一首」(元興寺之僧 巻六 一〇一八)
(原文)白珠者 人尓不所知 不知友縦 雖不知 吾之知有者 不知友任意

(大意)白珠は人に知られていないが、知られなくともよい。私さえ知っていれば、知られなくともよいのだ。

 明日香から奈良に移転したことにより「奈良の飛鳥(寺)」とも言われる。

ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 奈良の明日香を見らくしよしも	
(大伴坂上郎女詠元興寺之里歌一首 巻六 九九二)
(原文)古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳

(大意)古京となった昔の飛鳥もよいが、奈良の飛鳥もみればみるほどよいものだ。元興寺が飛鳥から奈良に移転したことを踏まえ、「平城の明日香」とよんでいる。

関連項目[編集]

注・参考文献[編集]

  1. 元興寺編(2020)「日本仏教はじまりの寺 元興寺-一三〇〇年の歴史を語る-」吉川弘文館