エーリヒ・クライバー

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エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber, 1890年8月5日 - 1956年1月27日)は、オーストリア指揮者[1]本名はエーリヒ・フランツ・オットー・クライバー(Erich Franz Otto Kleiber)。[2] 指揮者のカルロス・クライバーは息子である。

概要

ウィーン出身。[3] 父フランツ・オットーはギリシャ語やラテン語などを教える語学教師で、ピアノやオルガンも得意としていたが、クライバーが5歳の時に心臓疾患で亡くなった。[4]父の死から一年しないうちに母ヴローニも亡くなり、[5]母方の祖父でプラハ在住の商人だったヨハネス・シェープルに引き取られた[6]が、祖父ヨハネスも程なくして亡くなり、親戚を頼ってウィーンに戻ることとなった。1900年から1908年までワサ・ギムナジウムに通い、[7]その後、プラハ大学に進学して哲学、史学や美術史を学んだ。[2]1909年からプラハ音楽院でヴァイオリンのほかティンパニ、作曲や指揮などを学び、[8]ヴィーチェスラフ・ノヴァークの薫陶を受けた。[9]1911年には書き上げた交響詩でデューラー協会賞を獲得した。[8]1911年からプラハ・ドイツ歌劇場の練習指揮者としてキャリアを始め、1912年からダルムシュタット宮廷劇場の楽長、1919年からバルメン・エルバーフェルト市立劇場の指揮者、1921年からデュッセルドルフ市立劇場の第一楽長、1922年からマンハイム国立歌劇場の第一楽長のそれぞれのポストを渡り歩き、1926年から1935年までベルリン国立歌劇場の音楽総監督を務めた。1924年にはソポトのヴァルト歌劇場の指揮者も兼務。[2]1925年にはベルリン国立歌劇場でアルバン・ベルクの《ヴォツェック》の初演を指揮。1926年にブエノスアイレスを訪問した際、アメリカの大使館職員であるルース・グッドリッチと知り合って結婚。[10]1934年には台頭してきたナチスの文化政策に抵抗し、[11]ドイツを出国。[12]1937年から1949年までアルゼンチンのコロン劇場の指揮者として活躍し、1938年にナチスのオーストリア併合でオーストリア国籍を失ったのを機にアルゼンチン国籍を取得。1943年から1947年までキューバのハバナ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼ね、南アメリカの主要なオーケストラに客演を繰り返した。[2]1948年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演してからヨーロッパ楽壇に再び登場するようになった。[12]1951年に古巣のベルリン国立歌劇場に客演して以降、同歌劇場への復帰を打診されていたが、東西ドイツの政治的駆け引きに嫌気がさして1955年には破談となった。[13][14]

滞在先のチューリヒのホテルで心臓発作を起こして急逝。[15]

脚注

  1. エーリヒ・クライバー - Discogs
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  3. ケッテンブリュッケンガッセのフランツ・シューベルトが亡くなった家の真向かいに生まれた。(Barber (2013) BarberCharles [ Corresponding with Carlos ] Rowman & Littlefield Publishers 2013 9781442231177 8 )
  4. 父親は1895年10月5日に没し、ウィーンの中央墓地に葬られた。(Barber 2013 8)
  5. 母の旧姓はシェープル(Schöppl)。1896年9月頃に胸膜炎に罹患して亡くなっている。(Barber 2013 8)
  6. 祖父から一方で馬車による取引を学んだが、他方で祖父の得意とするバグパイプの様な民族楽器ドゥダク(dudak)に親しんだ。(Barber 2013 8)
  7. 後に作曲家となるハンス・ガルと同窓として親交を結び、フランツ・レハールの《メリー・ヴィドウ》を鑑賞したり、グスタフ・マーラーの謦咳に接したりした。(Barber 2013 8-9)
  8. 8.0 8.1 Barber 2013 9
  9. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  10. 一男一女を儲け、長男カールは後に指揮者となった。(Hein Caskel (2015) HeinHartmut CaskelJulian [ Handbuch Dirigenten ] J.B.Metzler 2015 9783476023926 233 )
  11. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  12. 12.0 12.1 アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  13. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  14. ウィーン国立歌劇場からも要職の打診を受けたが、長時間のリハーサルを要求したことで沙汰止みとなった。(Hein Caskel 2015 233)
  15. Hein Caskel 2015 233