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(水泳訓練の計画)
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校長(1948年(昭和23年)着任)は担当生徒数が多い女性教諭の補助も引き受けた。若い体育主任は水泳場設置・訓練の実施進行の担当者でもある。
 
校長(1948年(昭和23年)着任)は担当生徒数が多い女性教諭の補助も引き受けた。若い体育主任は水泳場設置・訓練の実施進行の担当者でもある。
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=== 水泳訓練の開始 ===
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橋北中学校では、予定通り1955年(昭和30年)7月18日より文化村海岸で水泳訓練を開始した。
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文化村海岸とは以前から同校が水泳訓練を行ってきた場所で、安濃川河口右岸から南方に広がり満潮時にも数十m幅の砂浜を残す遠浅の海である。7月18日から27日までの訓練場は、安濃川右岸から約300m南方を北限とし、南北の渚の線で約60m(約70m)、渚より東方沖に水深1m前後を標準として3,40m(約40m)の所とした。この区域は竹の表示竿で区切り、南北に区分して、訓練開始当初2日間は男子を北側、女子を南側に入れたが、以後は男女の場所を入れ替え女子を北側にした。これは女子が水泳終了後、男子より少しでも早く北方にある校舎に帰り着替えできるようにとの配慮からであった。橋北中学校訓練場の北側には市立南立誠(みなみりっせい)小学校、南側には市立養正小学校の水泳場が設置されていた。男子側も女子側も各組の使用場所を特定区分することはせず、組担当職員を中心にその附近で練習させていた。
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=== 訓練最終日-事件の発生 ===
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7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。
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この日は、南側の[[津市立養正小学校|養正小学校]]、北側の[[津市立南立誠小学校|南立誠小学校]]が水泳訓練を実施しなかったので、水泳場の区域を前日までの幅約60m(約70m)から110mに拡げ、沖への奥行を渚より約41m(深さが1m足らずのところ)とした。北側の幅50m×奥行41mは女子水泳場、中間の幅10m×奥行41mを男女の境界、南側の幅50m×奥行41mを男子水泳場とした。沖41mの線の男女各水泳場の角に1本ずつ表示竿(竹竿)を立てた。このように拡げられた水泳場の北端(女子水泳場の北端)は[[安濃川]]河口より約295mの位置にあった。
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この位置は、最も近い澪(帯状の深み、この時は海岸北端から海岸に平行して200m地点に至り、そこから大きく湾曲して沖に向かう。幅約20m、満潮時で水深約2m)の縁辺まで約30m(約20m)であった。
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水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、水泳場設定に当たった水泳部員の中にはこれに気づいて教諭に告げた者もいた。
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テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。
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職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、[[準備運動|準備体操]]の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。男子生徒も同様である。
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女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。
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ところが海に入ってから僅か数分後(2分~5分後)、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。生徒のほかに女性教諭も溺れている。溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や[[人工呼吸]]<ref group="注">当時はまだマウス・トゥー・マウスは一般的でなく、[[ニールセン法]]や[[シルベスター法]]が使われた。</ref>を施した。
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次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、[[三重大学医学部附属病院|三重県立大学医学部附属病院]]や[[伊勢市]]の[[伊勢赤十字病院|山田赤十字病院]]に応援を求めた。津警察署からは救援隊が、[[三重県警察|三重県警察本部]][[機動隊]]、[[陸上自衛隊]][[久居駐屯地]]の衛生班、県庁職員も出動した。4名の漁師も舟で救援に協力した。三重県立大学医学部附属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。
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14時50分には山田赤十字病院から医師6名、看護婦10名も到着した。49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。橋北中学校の[[葬儀|学校葬]]は8月1日に行われた。
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==

2019年12月1日 (日) 10:34時点における版

橋北中学校水難事件(きょうほくちゅうがっこうすいなんじけん)または津海岸集団水難事件(つかいがんしゅうだんすいなんじけん)は、1955年7月28日三重県津市津市立橋北中学校の女子生徒36人が、同市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した水難事故

当時の新聞(朝日新聞毎日新聞)の見出しには、「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、週刊誌では「津海岸集団水死」(週刊朝日)、また「津海岸女生徒水難事故」(判例時報、446)、ネット上では「津海岸水難」(毎日フォトバンク)、「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」(衆議院会議録情報 第022回国会 法務委員会 第44号)といった名称が見られる。

概要

水泳訓練の計画

橋北中学校では、学校行事の一つとして毎年夏季に水泳訓練を実施してきたが、1955年(昭和30年)に津市教育委員会が夏季水泳訓練を同市内小中学校に正課の授業(正確には特別教育活動)として実施させることとしたため[注 1]、7月15日の職員会議でその実施計画の大綱を決定した。その概要は以下のようなものであった。

訓練は津市中河原地先の通称文化村海岸において、7月18日より28日までの10日間、午前中に施行するものとし、参加生徒約660名は、男女別にしさらに水泳能力の有無によって区別したうえ、ホームルームを中心とした組別に編成することとして男子7組(うち水泳能力のない組3組)女子10組(うち水泳能力のない組9組)の全17組とした。

さらに教諭16名と教諭の手不足補充のため事務職員1名とに各1組を担当させ、別に陸上勤務者として教諭2名を置き、水泳能力も指導の経験も充分な教頭(昭和30年4月着任)と体育主任の教諭(1952年(昭和27年)4月新任)の2名を生徒全般に対する指導者とした。

校長(1948年(昭和23年)着任)は担当生徒数が多い女性教諭の補助も引き受けた。若い体育主任は水泳場設置・訓練の実施進行の担当者でもある。

水泳訓練の開始

橋北中学校では、予定通り1955年(昭和30年)7月18日より文化村海岸で水泳訓練を開始した。

文化村海岸とは以前から同校が水泳訓練を行ってきた場所で、安濃川河口右岸から南方に広がり満潮時にも数十m幅の砂浜を残す遠浅の海である。7月18日から27日までの訓練場は、安濃川右岸から約300m南方を北限とし、南北の渚の線で約60m(約70m)、渚より東方沖に水深1m前後を標準として3,40m(約40m)の所とした。この区域は竹の表示竿で区切り、南北に区分して、訓練開始当初2日間は男子を北側、女子を南側に入れたが、以後は男女の場所を入れ替え女子を北側にした。これは女子が水泳終了後、男子より少しでも早く北方にある校舎に帰り着替えできるようにとの配慮からであった。橋北中学校訓練場の北側には市立南立誠(みなみりっせい)小学校、南側には市立養正小学校の水泳場が設置されていた。男子側も女子側も各組の使用場所を特定区分することはせず、組担当職員を中心にその附近で練習させていた。

訓練最終日-事件の発生

7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。

この日は、南側の養正小学校、北側の南立誠小学校が水泳訓練を実施しなかったので、水泳場の区域を前日までの幅約60m(約70m)から110mに拡げ、沖への奥行を渚より約41m(深さが1m足らずのところ)とした。北側の幅50m×奥行41mは女子水泳場、中間の幅10m×奥行41mを男女の境界、南側の幅50m×奥行41mを男子水泳場とした。沖41mの線の男女各水泳場の角に1本ずつ表示竿(竹竿)を立てた。このように拡げられた水泳場の北端(女子水泳場の北端)は安濃川河口より約295mの位置にあった。

この位置は、最も近い澪(帯状の深み、この時は海岸北端から海岸に平行して200m地点に至り、そこから大きく湾曲して沖に向かう。幅約20m、満潮時で水深約2m)の縁辺まで約30m(約20m)であった。

水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、水泳場設定に当たった水泳部員の中にはこれに気づいて教諭に告げた者もいた。

テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。

職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、準備体操の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。男子生徒も同様である。

女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。

ところが海に入ってから僅か数分後(2分~5分後)、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。生徒のほかに女性教諭も溺れている。溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸[注 2]を施した。

次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、三重県立大学医学部附属病院伊勢市山田赤十字病院に応援を求めた。津警察署からは救援隊が、三重県警察本部機動隊陸上自衛隊久居駐屯地の衛生班、県庁職員も出動した。4名の漁師も舟で救援に協力した。三重県立大学医学部附属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。

14時50分には山田赤十字病院から医師6名、看護婦10名も到着した。49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。橋北中学校の学校葬は8月1日に行われた。

脚注

注釈

  1. 全体としての予算は22校で22万円、橋北中には1,000円を配布、同校の便所と脱衣場は市教委の直営工事とした。
  2. 当時はまだマウス・トゥー・マウスは一般的でなく、ニールセン法シルベスター法が使われた。

出典

参考文献

  • () [ 日本海洋学会誌 ] 11 4 日本海洋学会 00298131 全国書誌番号:00018372
  • 最高裁判所事務総局 編 (1958) 最高裁判所事務総局 編 [ 第一審刑事裁判例集 ] 最高裁判所事務総局 1958 04165977 全国書誌番号:00014161
  • 『津市民文化』編集委員会 編 (1986) 『津市民文化』編集委員会 編 [ 津市民文化 ] 13 津市教育委員会 1986 全国書誌番号:00028285

関連項目

  • 離岸流
  • 丘けい子『海を守る36人の天使』(1968年集英社) - 本事故をモチーフとしたフィクション(コミック作品)
  • 紫雲丸事故 - 本事件の2ヶ月前に発生した海難事故(修学旅行中の小学生・中学生ら100人を含む168人が犠牲となった)。紫雲丸事故と本事件が契機となり、全国の小中学校へのプール設置が推進されたと言われる。